昭和40年12月4日 夜の御理解
今日、吉井の熊谷さんが、朝の御祈念に、ちょっと遅れられた。風邪具合が悪かったから、朝起きて、お水を頂いてから、お参りしようとしよったら、娘が、お母さん、そげん風邪ん具合の悪かち、言いよんなさるのに、ま、いっとき休みなさいち、言うもんだから、コリ積ましてもならんち思うてから、休んで、そして、あの人達が出ました後に、ちょっと参ってきたとこういう訳です。ですから、参ってきてからその、なるほど、神様のご都合、お引き回しの中にあるなあと思ったことは、丁度、善導寺の駅に降りられたら、お湿りがあっておった。自分は、大きなこうもり傘を持ってきておられたから、良かったんですけど、あそこに、一緒に降りた、若い、あの、婦人の方が、子供さん抱いて、その、雨が降っておるもんだから、途方に暮れておられた。その、どこまでおいでになられるか知りませんけれど、私バスのところまで行きますけん、これ、一緒にお入りになりませんかと言ったら、ほんならば、そうさせて下さいち言うてその、入って見えた。ま、その道々、お話させて頂いたところが、あの、亀口おこし屋の娘さんであった。話を聞くと、波多野さんところの、隣におられるげな。まあ、私の母もこげな風で、善導寺の金光様にご縁を頂いてから、この頃おかげ頂いておりますけども、また、最近とても悪くて、ま、困って居るというような話からですね。どうでんこうでん、お母さん達の信心じゃいかん、貴方も、どうでんこうでん、おかげ頂きなさいと言うてね、そのままお話をして、そしてあの、亀口屋の前まで送って差し上げたと、こういうわけなんです。本当にあの、神様のお引き回しの中にあるなあと思うたらですね。そのことが、有り難くなるんですね、信心させて頂く者は。それで、その時、ついでに話しておられるんですよ。「ね」。(あっはっは…)面白いことはね、この頃から、娘さんが東京から見えとったんです。それで、その、お土産沢山、それこそ、もう、舶来の物ばっかりなんですね。あちらが、その、それこそ、大変な、大家なんですからね。いわゆるその、ジョニーウォーカーのウィスキーをお土産に持ってきておられたらしいですね。それを、あの、子供がお世話になっとる、中学校の先生に差し上げたいと思って、持って帰って居ったと。ところが、娘が、お母さんそんなもん持って行くなら、私は、嫌ち。もう、そげなもん、貰うちから、ひいきでもされどんすりゃ、どんこんされんきんで、それは、持って行くこつは出来んち。娘がもう、きかんそうです。昌代さん、ほんなら、もう、あんたがそげん言うなら、折角、持ってきたばってん、持って行くめと言うて、あそこの、床の間の上においてから、置いたままであった。何か、赤ラベルか、黒ラベル、兎に角いいほうです。あの、いわば、世界一のウィスキーなんですよね。九千円するそうです。一本でこれが。「ね」。それで、ここで、聞かせて頂いてからです。そしてその、先日手紙来て、ほんに、床の間のあそこのところに置いてきて、忘れたけれど、あれはあのう、辛島のおじさまにでも、差し上げて下さいて、書いてあったそうなんです。で、そのつもりで来よったけど、中野さんに言うたら、こーりゃ、九千円ぐらいしますよ、ちいうて言うぎなもん。ほんならもう、これは親先生に上がって頂いてから、こっから、買わんもんが(笑い)安かろちいうて、(はっはっは)庭の際でその、言われるんですね。けれども、私が言うんです。もう、ほんとに、それはもう、兎に角もう、普通のもん持って行ったちゃ、よろこびゃしなさらんでしょじゃち言うて、あのう、辛島の北川ちいやあ、やっぱ大家ですからね。それで、こればあの、英国のジョニーウオーカーて言うことになったら、どんなに喜ばれるかも知れんけれども、そら、私が頂くよりか、むこう、その、訳を言うて持って行きなさいち。それでその、そういうようなことから、あー、その、まあ、色々話して、まあ、おられたんですけれどね。そういう中にでも、ほんとに何か知らんけど、はー、もう、先生、おかげ頂きましたというわけですね。もう、本当に、私が、もし、ここから頂かんでもです。安いウイスキーを持って行って、ここにお供えさせて頂いてもです。もう、それよりも、やはり、弟がこれを頂いたら、椛目の親先生が、こう仰ったと言うたら、どげんまたそれは、兎に角、あの、椛目先生ファンですもん、あちらの弟さんという方は。もう、そら、あちらは、お参りして見える時には、もう、兎に角、椛目先生が好きじゃからと言うて、参って来なさるとです。もう、家ん近所の肉屋さんなら、もう、たるんいっぱいも出しましょうち、言うってから、何時も、言いなさるくらいに、椛目ファンです。信心は無いですけれどね。ですから、その、椛目先生が、そのいらっしたら、きっと喜ばれるに違いは無い。ほんなら、あんたこらもう、最初、こっから貰ったつよりも、椛目先生から貰ったつたい、ちいうたら、よろこぼて言うてから、まあ、行かれたんです、今日は。まあ、こういう中にも、おそらく様々なお引き回しがあるだろうと思うですね。それから、最後に、先日、うー、久留米に、二十七日の日に、デパートに用のあって参りまして、久しゅう、この頃久留米にご無礼しとるから、三橋先生ところに、ちょっとお参りさせてもらおうと思うて、お参りさせて頂いたら、丁度その日は、二十七日のあちらの共励会があっておった。それで、あそこで、三橋先生のお話を聞かせて貰うてからあの、いま、神様から、水行ということを頂いておる。水行のおかげを頂いておるばい。熊谷さんもあの、随分長く水行のおかげを頂いておられるが、あー、もう、どの位なりますかという話からやったそうですたい。そしてから、私は、ちょうーど、おー、あら、ほんに今日ですたい、今日が、十二月の、十一月の二十七日。今日でまる。あら、私は、今日、うっかりしとったが、丁度、水行させて頂くようになって、十年目になりますたいと言い乍ですたいね。本当に、神様から、十年間も水行させて頂いて、あそこの、二年、三年はしろしかったけれども、もう、今では、風邪をひいて、少々熱があっても、お水を頂かなければ、朝の御祈念前に頂いてこなければ、もう、居られないようなおかげを頂いておると。しかも、この、十年目に、久留米でこのことを、思い付かせて頂くということが、なんち有り難いことじゃろかと。久留米の三橋先生が水神さんと言われているような人でしたからね。もう、それは、大変喜ばれた。それで、十年間、ようさせて頂いたという事の有り難さと。で、それでも、やはり、何かそこに、ちょっとポイントになるところですたいね。そう、感じなければ居られないような物ですたい。なるほど、十年間、水行させていただいた、十年間の満十年間のその日にです。いわば、三橋先生のところに、しきりに、お引き寄せ頂きたかったとこういう事なんかでも、神様の、おかげを頂いてから、させて頂いておることだということを、まあ、実感したと、こういう訳でございます。
今日、熊本から、吉田と言う、おじいさんが参って見えまして、えー、昨日、大変広大なおかげを頂いてから、息子さんが、ノイローゼで、大変ひどいノイローゼでした。こちらへ、トラックで、あの、自動車で連れて見えよりましたですもんね。三輪車の、後ろにトラックの付いたやつ。それから、もう、飛び降りなさるごつ悪かった。ここに、連れて見える頃。それから、精神病院に入院させられてから、もう、どうにも出来ないのをですたい。もう、この、御大祭のごひれいに、浴しさせなさいと言うて、近所の信者が進められてから、今度の、記念祭にお参りして、あの、記念祭を境におかげを頂きだしたそうです、その息子さんが。この頃、家族中がだあれん出て見えんきん、もう、兎に角、近所の人まで付いてきましたです、今度は。やっぱりおかげ頂かにゃ、人は付いては来んですねえ。男子の方なんかは、( ? )応援に一緒について見えましたんですよ。その、お父さんなんです、今日見えたのは。それが、先生、椛目のお神酒さんなその、おー、何とか言われました、その、ご利益じゃない、霊験じゃない、何か、なんとかといわれ、あばた椛目の熊本弁の何とかというんですね、もう、新たかさに、出ーてしもうた、ち。その、牛が昨日、お産を致しました。それがその、逆産で、腹を切らなきゃいけんといってその、いうので、その、医者を呼びに行こうとしよっ時に、はあー、ちょいと待たんの、お神酒さんを頂かせにゃと言うてからその、お神酒さんを頂かせた。もう、お神酒さんを頂かせたらですね、もう、普通のときの産よりも軽るう出たち。もう、逆さまのまんま出て来たそうです。もう、本当に、椛目のお神酒の広大なお恵みには驚いたち言うてから、その、地に頭が下がりましたち言うてから、お礼言うておられますもん。「ね」。なるほど、そういうおかげを頂きますとですね、やはり神様のおかげというものを、感じん訳には参れませんですね。けども、これは、どこまでも、その、やはり、おかげであってですね。例えば、熊谷さんのそれにしろ、今日一日の、例えば、お引き回しの上に、神様それを、おかげを頂いておるという事を、感じるから、神様のご修行をを受けておることの有り難さというものが、日々、有り難いという事になってくるんです。「ね」。今日も、秋永先生も、今日は、朝の御祈念に参ってきておられました。それから、話し合ったように高橋さんも朝の御祈念に参ってきておった。それで、とうとう二人、一日今日は、あー、あちらのほうで、合楽のほうで、御用頂いて、そして、今日、先程までおられましたんですね。高橋さんが、私と一緒に、風呂入ってからですもん。あの、上がってから、私が言うんです。「高橋さん、あんた私と一緒に風呂に入るたんびに何か感じることない」と、私が言う。「いいえ、大抵おかげ頂きます」とこう言う。「おかげ頂くもんねえ。私が極楽モードに浸るときだから」というなら、もうそこに、そこに、いわば不思議なという働きが起こらんはずが無いと私が言う。「ね」。そのことを私が、あの、申させて頂いておりましたらですね、神様からあの、こういう教導をカラーと仰るですね。カラー写真のカラー。ここでみなさん、御理解頂いて、教導受けておられるのは、ま、普通の写真のようなものだということです。写真を見せて、実物の写真を例えば見せて、「ね」。いわば、説明をしているようなもの。そすと、今の、高橋さんのような、もう、身近に私の、していること、言うていることをですね、もう、そのまま、信心で、こう、現れていくというのに接したのは、これは、その写真をカラーで見るようなものだから、青いところは、青い、暗いところは暗いと分かるわけなんです。「ね」。そのくらいに違う。だから、椛目にご引き寄せを頂かれる皆さんは、私のいわば、行動といったようなものに、何時も接して、あー、あれが神様だと、いつも先生が言うておられる神様の働きだなあというものをです、実感しなければいけないのです。家族中のものも、もう、それが、もう、あたーりまえになってしまって、いわゆるそれが、その、なんていうですか、んー、もう、当たり前のようなことになって居ったんではですね。もう、おかげになりませんですねえ。今日、私、一緒に入らせていただきましたら、とても、お風呂が沸きすぎてるんです。「ね」。ですから、その、私が、大きな湯だらいに、一杯、高橋さん取りなさいち言うて、取らせるんです。あら、可笑しいな、先生がお入りになる時にはもう、これに入られて、丁度一杯になるのが、先生のあれなのに、今日は、ちょっと先生が、間違うてござるとじゃろうかと、こうもこうも思うているわけなんですよね。ところが私が、たらいに一杯こう取らせる。「ね」。そして、私が丁度、いい加減のところにうめてから、丁度一杯だったから、もう、それで、おかげ頂いてから、まあ、二人のものが、洗わせて頂いて、「ね」、それから、今度はまた、湯だらいのほうを、全部また、移してから、私が、入らせていただいたら、また、丁度いい加減に一杯。ひとっつも、粗末にならない。もう、言うなら、どうね、高橋さんと、こういうところです。そこを、高橋さんは、感じているわけなんですね。なるほど、なるほどというわけなんです。もう、天に上るとはこのこと。多かろうが、少なかろうが、丁度良いというおかげなのである。「ね。もう、二人入って良か、三人入って良かち、言うことは、同じこと。私は、神様がご修行くださることにおいては、一つも変わらない。というものを、感心しておるわけなんです。そういう、いわば、教導を、カラー写真を持って教えているようなものだと思います。「ね」。私と一緒に、御本部参拝なさるでしょう。それで、なるほど、御本部参拝させていただく有り難さというものが、親先生と行動をともにしなければ頂けないという事をです、実感されるのも、やっぱそんなことなんです。だから、そういうようなことから、こういうようなこと、様々な事の中からです、神様の、こういう身近な働きをです、私共が頂いておるというおかげを頂くから、いわゆる、有り難いという実感も湧いてくるようなものなのです。例えば、ここで、もう、久保山先生でも、久富先生でも、繁雄さんあたりでも、もう、それこそ、身近に引っ付きすぎるくらいに、引っ付いてから、おかげ頂いておる。それで、もう、私がそれを言うんです、例えば、久富先生にしろ、久保山先生にしろです、まあ、本当に、やかましか先生と思いなさろうけれどもです。けれども、その、きちっとするところだけは、きちっとしているもんだから、やっぱりその、離れでもせんといったようなことで無からなきゃ、私に、付いてはおられませんよ。私のごつ、やかましもんのところでは。「ね」。そこは、分かっておるけれど、それに、自分たちの、神様の身近な実感としては、生まれてきて、それは、もう、先生の上だけの専売特許のように思えて、当たり前のことにしてしまっておるということでは、惜しいことだということ。そういうおかげが受けられるということ。自分たちの上にも、頂かなければならない。カラーで何時も頂いているのだけれども、それを、当たり前のようなことになってしまっては、惜しいということなんです。「ね」。だから、どのような場合の中にも神様のそういうようなご修行の中にです、しかも、それを、身近にひたひたとです。「ね」。感じれれてこそ、信心のまた、有り難さも、楽しみもあるのですから、そういう皆さん、おかげを、まあ、ある場合には、カラーで、ある場合には、普通で、ある場合にはです、「ね」。熊谷さんの例を持って致しましたように、十年間という水行の中にです、神様の、お胸の中に頂いて居ったということを、十年経ってみて初めてです。本当に実感できる、本当に、神様のご都合に恐れ入ると言うてから、自分の修行のさせていただいておったという有り難さに、改めて、その、感激しておられる熊谷さんのことやらをですね。だから、皆さんが、例えば、様々な、修行をなさっておられる、その、修行がです。「ね」。それが、そういう神様が、見てみらるな、受けれてござるなというものを感じれれるような、修行でなからなければ、私は、値打ちは無い。かみさまを身近に感じられる修行で無からなければ、つまらんという風に思うです。「ね」。例えば、熊本の吉田さんあたりのように、物も無残、例えばそうした、奇跡的なおかげを受けますと、神様のおかげと、こう、それだけでは、私は、いかんと思うですよねえ。その、何時も、かつもが大事なんだと。そこに、また、場合によってはそうした、おかげも頂かなければならんのでございますけれども、おかげの中に、何時も浸らせて頂いておると、おかげが、もう、当たり前のようになる。当たり前のようになっては、最後のものは生まれてこないと思いますね。どうぞ。